2008年6月21日土曜日

アウトサイダー・アート

午後から民族藝術学会の例会へ行きました。僕はいえしまプロジェクト、マゾヒスティックランドスケープ、OSOTO、ホヅプロなどについてお話し、兵庫県立美術館の服部正さんはアウトサイダー・アートについて講演されました。

アウトサイダー・アートという考え方はとても興味深いものでした。概念自体は1860年ごろに誕生したとのこと。ランドスケープアーキテクチュアの誕生も1860年ごろですから、アウトサイダー・アートとランドスケープアーキテクチュアは同い年くらいだということになります。

アウトサイダー・アートの発端は、精神病患者などがアートの教育を受けないにも関わらず、誰に発表するわけでもなく、生活の必要に駆られるわけでもなく、ただ黙々と創作し続けたものが精神科医などに注目されるようになったことなのだそうです。精神科医にしてみれば、黙々と創作活動を続ける患者たちが、患者ではなく、ある種の芸術家なのではないかと感じたようです。1920年ごろまでは、精神科医などが患者の芸術家的側面を強調することによって、アートの外側にいる人たちのアートという意味で「アウトサイダー・アート」が注目されることになりました。

一方、1920年ごろから先は、アートの内側にいる人たちにとって外側から大文字の「ART」を批評するものとしてアウトサイダー・アートの概念が拡がることになります。芸術的計略性に満ち溢れた「ART」ではなく、機能も発表も何もしないけど作り続けるアウトサイダー・アートのなかに、アートが本来持っていた純粋性を見出していたんだろうと思います。それが、当時のアート界を外側から刺激することになったのでしょう。

僕たちも「アウトサイダー」としていえしまや島ヶ原といった地域に入り込みます。当初は驚きの目で見られたり、反発があったりしますが、外部から見た視点で地域の良さや問題点を指摘することができます。このことによって、内部にある種の変化を起こして、それをまちづくりの原動力にしているのかもしれません。

まちづくりに重要な人間として、「よそもの、わかもの、ばかもの」の3人を挙げられることが多いですね。考えてみれば、この3種類の人間は地域の自治会などにとってはいずれもアウトサイダーとして目される人たちなのかもしれません。

そう考えると、アウトサイダー・アートがどのように大文字の「ART」を刺激し、変容を生みだし、入り込み、ある意味で飼いならされていったのかを追ってみたいものです。幸い、服部さんが『アウトサイダー・アート』という本を書いていますので、まずはそれを購入して勉強させてもらおうと思っています。

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