2004年11月25日木曜日

「建築的欲望」

隈研吾さんの「建築的欲望の終焉」を読む。

1920年代と1980年代のアメリカは、同様に好景気だった。それは、建築的欲望が最大限に膨れ上がっていた時代だったとも言える。しかしその後、両時代とも好景気の終焉を経験することになる。同時にそれは建築的欲望の終焉でもあった。本書は、2つの時代を照らし合わせることによって建築的欲望の特徴を探っている。

建築的欲望とは何か。建築はたくさんの欲望が集積することによって立ち現れる。隈さんは、建築を出現させるために必要な欲望のことを「建築的欲望」と呼んでいる。

建築は多くのお金を要する。大きな空間を要する。建設に長い時間を要する。完成したら簡単に取り壊すことができない。これほどやっかいなものを作ろうとすれば、よほど多くの欲望が集まらない限り建築をスタートさせることはできないはずだ。建築的欲望とは「建築を成立させるくらい大きな欲望」ということなのである。逆に言えば、欲望が無いところに建築が現れることはないわけだ。

ランドスケープが設計の対象とする公共空間について考えてみよう。かつて、公共空間に人々が求めたものはモニュメントだった。明確なモニュメントがあれば人が集まった。為政者の欲望も同じだった。公共空間に記念碑を作りたがった。つまり、ここでは市民と為政者の欲望が一致しており、それゆえ多くのモニュメント空間が出現した。

しかし現在、人々は公共空間にモニュメントを求めていない。むしろ、自分達が関わることのできる公共空間を欲している。自分の家が狭いからなのか、あるいは暇な時間が増えたからなのか、もしくはコミュニティの大切さを刷り込まれているからなのか、とにかく人々は公共空間で活動したいと思っている。

為政者は、こうした市民の欲望をうまく絡み取る。市民の欲望はモニュメントを作るための言い訳として利用される。その結果、街には「市民参加型モニュメント空間」が増殖する。モニュメント空間が作り出されるのプロセスに立ち会わなかった人にとって、かつてのモニュメント空間と市民参加型モニュメント空間は見分けがつかない。建築的欲望の悪用とも呼べる行為である。

市民の欲望を素直に発露させることができる公共空間をデザインすることはできないのか。市民が欲望を吐露したくなるような公共空間。そのデザインにサディスティックなアプローチは馴染まない。作家の好みを押し付けるようなストライプやグリッドは到底機能しない。

市民の欲望を引き出し、受けとめる公共空間。空間が市民によって改変されることをも厭わないくらいマゾヒスティックなデザインアプローチ。

「建築的欲望の終焉」のなかで隈さんはこう述べている。『建築という行為を通じてあらゆる矛盾を解消し隠蔽しようとしてきた人類の文明の基本構造が問われている』と。そして『建築というエサを目の前にぶら下げることによって人々の欲望を喚起、誘導し、そのエサを与えることによってその欲望が充足されたという幻想を人々に与え続けてきた、この文明の本質が問われている』のだと言う。

そして最後をこう締めくくる。『もし今後も建築というものが世の中に建て続けられるとするならば、それは建築に対する苦い自己否定のなかからのみ、かろうじて搾り出されるべきものであろう』。

なんともマゾヒスティックな結論である。

山崎

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